凱旋記念ホール

建物に秘められた鎮守府のものがたり

Vol.02

「最新技術を駆使した日本海軍の秘密基地」

潜水艦が登場した第一次世界大戦ではもう一つ、初めて登場した新兵器がありました。航空機です。第一次世界大戦における航空機の活躍は目覚ましく、各国は航空機の開発に力を注ぎました。その結果、航空機の性能は年を追うごとに進歩し、やがて都市や軍艦に対しても脅威となっていきました。これと同時に、敵の航空攻撃をいかに防ぐか、という「防空」の概念も生まれました。防空は味方地上戦力あるいは航空戦力により敵機の出撃拠点を叩く「積極的防空」と、自陣にて出撃してきた敵機を迎え撃つ「消極的防空」の二種類に分けられます。積極的防空の要は他国へ侵攻可能な自軍の海軍力及び陸軍力であり、消極的防空の要は見張所や高射砲台、防空戦闘機でした。
しかし日本陸海軍は高射砲台などを第二線級の部隊として軽視していたため、本格的に整備が始まったのは支那事変が勃発した昭和12年(1937)以降のことでした。五島列島を中心に8ヶ所の見張所と、佐世保鎮守府周辺に13ヶ所の高射砲台の建設が行われるとともに、佐世保鎮守府と軍港を見下ろす位置にある但馬岳に昭和13年(1938)5月に防空指揮所が完成しました。ここからは佐世保航空基地と大村航空基地に直通回線が設けられており、見張所からの報告を受けるとともに航空機による迎撃を指示する仕組みだったと考えらます。しかし航空機の進歩はまさに日進月歩であり、速度、航続距離はもちろん飛行技術も進歩し、大型機は夜間飛行までも可能となっていました。こうなってくると鎮守府本庁から遠い但馬岳に防空指揮所があることは不便であり、迅速な指揮に支障をきたすこと、また次々と増設される見張所や砲台からの情報を集約する施設としては狭く、機能的に限界を迎えることは容易に想像できたことでしょう。恐らくこれらの理由から、但馬岳山頂の防空指揮所を佐世保鎮守府本庁舎(現在の海上自衛隊佐世保地方総監部)の地下に移転する工事が密かに進められ、昭和17年(1942)12月に完成を迎えました。
新たな防空指揮所は地下2階、総面積は約1,900㎡に及び、地上部には耐爆式の電話交換室棟が設けられていました。地下1階には中央正面に巨大な地図盤と指揮卓が設けられ、それを取り巻くように砲戦発令室、作戦室、空襲警報発令所と各地の陸海軍基地や航空基地との直通回線を備えた6つの情報室などが配置されていました。この防空指揮所で画期的だった点は、集約された情報を全て視覚的に表現していたことにあります。中央正面に設けられた地図盤は複数の区域に区分され、鎮守府を中心として同心円状に多数の電灯が埋め込まれていました。見張所からの報告により敵機の攻撃が予想される区域が緑に点灯し、実際に攻撃を受けた区域は赤に点灯しました。さらに地図盤に埋め込まれた電灯が点灯して敵機の位置を示し、地図盤両側の電光表示板には侵入してきた敵機の機種、機数、高度などが表示されました。また砲戦発令室外側にも各砲台や見張所の動静を示す電光表示板が設けられており、指揮官は多数の情報を視覚的に確認することにより迅速に状況を判断し、命令を下すことができるようになっていました。現代の艦艇には欠かすことのできないCIC(Combat Information Center=戦闘指揮所)の先祖ともいえる施設だったのです。同様のコンセプトを持つ施設は日本軍もアメリカ軍もほぼ同時に考案していたようですが、ここまで徹底して具体化した施設は世界でも最初期のものだったと考えられます。附属施設にも工夫が凝らされており、各種電気設備が発する熱を抑えるために冷房設備が完備され、水洗トイレまで設けられていました。また防空壕としての役割もあり、鎮守府職員880名を収容することも可能でした。地下2階は長いトンネル構造となっており主に通信室として使用されていました。トンネルは海兵団方面や海軍病院方面へ伸びていますが、どこまで続いているのかはわかっていません。
佐世保鎮守府防空指揮所では昭和19年(1944)6月より本格化していく日本本土空襲において九州一円の海軍基地に対する空襲警報の発報や対空戦闘の指揮を担いました。空襲の際には戦闘報告書が作成されましたが、これには防空指揮所の地図盤の記録から作成されたと考えられる詳細な敵機の飛行ルートが時間毎に記録されており、それらの記録を戦訓として砲台や見張所の施設の充実が図られていきました。しかし終戦間際になると迎撃する戦闘機も不足し、敵機の情報が表示された地図盤をただ見守るしかない状況もあったといいます。
戦後佐世保に進駐してきた米軍は防空指揮所の施設に興味を示し、詳細な調査を行いました。その結果として、防空指揮所のシステムは極めて適切で効果的であることが報告されています。しかしながらレーダーや夜間戦闘機の性能不足、敵味方識別装置の欠如、火器管制システムの不備など防空に関する基本的な欠陥が指摘されており、そのために防空指揮所の優れたシステムが適切に機能できなかったと結論付けています。
その後防空指揮所は不審火(米軍の命令ともいわれる)により内装は全焼してしまいました。海軍が去った佐世保鎮守府の跡には昭和43年(1968)に海上自衛隊佐世保地方総監部が移転し、防空指揮所も一時活用が模索されたそうです。しかしながら実現はせず、防空指揮所は長い眠りの中にありました。そして平成28年(2016)、旧佐世保鎮守府関連の近代化遺産をまとめた「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 日本近代化の躍動を体感できるまち」が日本遺産に認定されたことをきっかけに整備され、翌年から一般公開が開始されました。日本海軍の秘密基地ともいえる佐世保鎮守府防空指揮所は戦争の記憶や当時の最新技術を無言のうちに語り始めています。

佐世保市教育委員会 文化財課 川内野 篤

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昭和17年に撮影された防空指揮所
(防衛省防衛研究所蔵)
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現在の防空指揮所