凱旋記念ホール

建物に秘められた鎮守府のものがたり

Vol.01

「地中海の守護神、佐世保へ凱旋」

日本人にとって、「戦争」といえば多くは第二次世界大戦(太平洋戦争)を想像すると思います。さかのぼっても日露戦争や日清戦争までではないでしょうか。一方ヨーロッパで「Great War」と呼ばれる第一次世界大戦についてはほとんどの日本人は意識していません。そしてこの第一次世界大戦と佐世保市には深い関わりがあることはさらに知られていません。
大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦では様々な新兵器が登場しました。潜水艦もその一つですが、特にドイツ帝国海軍の潜水艦Uボートは非常に有名です。その名が一気に広まったのが第一次世界大戦下の地中海や大西洋で展開された無制限潜水艦作戦による膨大な撃沈スコアでした。開戦から大正5年(1916)12月までの間に1,591隻3,288,309トンの艦船と膨大な物資、そして人命が海の藻屑となりました。この深刻な被害に堪りかねたイギリスが救援を求めたのが盟友日本でした。これに対し日本は巡洋艦1隻、駆逐艦8隻(のち12隻)からなる第二特務艦隊を編成し、長躯地中海に派遣しました。大正6年(1917)4月上旬からマルタ島を拠点とし護衛活動を開始した第二特務艦隊でしたが、その任務は非常に困難なものでした。それまでの艦艇は海の上にいる敵と戦うものであり、海の中に潜む敵と戦うことは想定されていなかったからです。Uボートに散々苦杯を舐めさせられたイギリス海軍はその困難さが骨身に染みており、潜水艦を先に見つけきれずに攻撃を受けた場合は逃げるしかないと考えていました。そのためイギリス海軍では輸送船が攻撃を受けても二次被害を防ぐため救助活動を禁じていたほどでした。
1917年5月4日、ついに第二特務艦隊の駆逐艦松と榊が護衛するイギリスの輸送船トランシルバニア号がUボートの攻撃を受けてしまいました。トランシルバニア号にはイギリス兵を中心に船員や看護婦も含め3,266名が乗っていました。敵の潜水艦がまだ潜んでいる状況では被雷した船を見捨て、避難したところで責められることはなかったでしょう。しかし2隻の駆逐艦は1隻が潜水艦を牽制し、もう1隻で動けなくなったトランシルバニア号に接舷して救助をはじめたのです。この行動に驚いたのはトランシルバニア号の乗船者たちでした。敵の攻撃で動けなくなった以上、自分達は見捨てられるはずでした。しかし日本の駆逐艦は迷わず救助を選択し、Uボートからの攻撃を掻い潜りながら交代で約1,700名の救助に成功し、駆けつけたイタリア海軍駆逐艦などとも協力して全体では約3,000人を救助しました。一度に約1,000人を救助した駆逐艦榊は戦闘詳報において「艦内殆ト立錐ノ余地ナキニ至リ」と報告し、最寄りの港と遭難海域を何度も往復して救助にあたりました。負傷者は艦内で手厚く看護し、乗員用の食糧や衣服も提供しました。ことの顛末はあっという間に広まり、イギリス議会にも報告されました。報告後、議場では自然と日本語での万歳が巻き起こりイギリス国王ジョージ5世からは両艦の艦長以下20数名に勲章が授与されることになりました。そして第二特務艦隊へは護衛の希望が殺到し、中には日本艦隊の護衛がないと出港を拒否する船長もいたといわれています。第二特務艦隊の司令官佐藤皐蔵少将はイギリス海軍と常に連絡を取り合いその要望に良く応えました。特筆すべき成果は1918年4月から7月にかけて「ビッグ・コンボイ」と称されたアレキサンドリアーマルセイユ間で行われた大規模な輸送作戦の全てを第二特務艦隊が護衛し、最小限の被害で成功を収めたことでした。この輸送作戦の成功により連合国軍は劣勢に追い込まれていた西部戦線を立て直すことに成功したのです。この間、第二特務艦隊が被った損害も少なくなく、クレタ島沖で雷撃を受けて艦橋より前を吹き飛ばされた駆逐艦榊の被害を最大として78名の命が失われました。この中にはトランシルバニア号救助の立役者上原太一艦長も含まれていました。終戦までの一年半の間に第二特務艦隊の出動は358回、護衛した軍艦・輸送船は788隻、輸送人員は75万人、交戦回数34回、そして救助者は合計単独のみで4,063名に及びました。その稼働率は実に72%に達し、イギリス艦隊を含めてもトップの稼働率を誇りました。この獅子奮迅ともいえる活躍は「地中海の守護神」と称えられ、第一次世界大戦における連合国の勝利に貢献したと認められたのです。国土の大半が戦場となったベルギー王国は戦争の早期終結に貢献したとして司令官の佐藤皐蔵に最高位の勲章を授与したほどでした。この地中海における第二特務艦隊の活躍は日本でも大きく報道され、日本国民を熱狂させました。特に艦艇の大半が所属していた佐世保鎮守府管内の人々の喜びは非常に大きく、凱旋記念館の建設が計画されました。後に西海中学校を創設する菅沼周二郎が建設委員長を務め、鎮守府管内の12県から多くの寄付が寄せられました。そして大正12年(1923)5月、地中海の守護神の凱旋を記念するにふさわしい壮麗な記念館が誕生しました。
この第二特務艦隊の活躍があったため終戦後日本はパリ講和会議への参加を認められ、新たに発足した国際連盟の常任理事国としてアジアにあった旧ドイツ領の統治を任されることになるなど、国際的にもその地位を大きく向上させ、世界の大国と肩を並べることにつながりました。その陰で犠牲となった日本海軍の将兵に対し、イギリス海軍はマルタ島ヴァレッタの英連邦海軍墓地に一際大きな犠牲者の墓を建立することで最大限の敬意を表し、日本海軍もまた佐世保市の東山海軍墓地に堂々たる慰霊碑を建設しその業績を称えました。彼らの活躍は国際協力の重要性を物語るものであり、世界に対して誇るべきものであったということができるでしょう。

 

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完成当時の凱旋記念館
(西海学園高等学校蔵)
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東山海軍墓地にある
「第二特務艦隊陣没者之碑」