凱旋記念ホール

建物に秘められた鎮守府のものがたり

Vol.03

佐世保鎮守府はじまりの地、立神広場

米海軍佐世保基地のバックゲートやSSKの東門に近い場所にアマチュアバンドの練習場として使われている1棟の煉瓦倉庫があります。いま、この建物を中心とした「させぼ立神近代化歴史公園」(仮称)の構想が進んでいます。実はこの場所は明治20年(1887)1月から始められた佐世保鎮守府建設第一期工事により造成された場所で、まさに佐世保鎮守府はじまりの地ともいえる歴史的意義の大きな場所なのです。
明治政府が富国強兵を目指す過程で大きな問題となったのは、日本を取り巻く広い海をどう守るか、ということでした。そのためには外洋を航行できる艦隊が必要であることは言うまでもないでしょう。そして艦隊を維持するためには燃料や水、食糧を補給し、乗組員が休息する基地を設営する必要がありました。また朝鮮半島を巡って対立しつつあった近隣の大国大清帝国の動向も警戒しなくてはなりませんでした。そのような情勢の下に計画された佐世保鎮守府には「艦隊屯集場」つまり艦隊の集合場所としての役割が期待されていました。そのため佐世保鎮守府の建設工事に当たっては艦隊の行動に必要な物資の保管施設の建設がいち早く進められることになりました。火薬類は前畑地区、食糧や衣類は平瀬地区、そして立神地区には石炭や兵器類、弾丸類の倉庫が設けられました。現在音楽室として使っている煉瓦倉庫は小銃弾のように弾丸と薬莢が一体となった「弾薬包」を保管する「弾薬包庫」という建物でした。これらの倉庫の多くは堅牢な煉瓦造りであり、鎮守府庁舎に先立って明治21年(1988)までに概ね完成を迎えました。この第一期工事の際に定められた保管物資の地区分けはその後の佐世保鎮守府の施設配置の基本として受け継がれていくことになったのです。弾薬包庫をはじめ、これらの施設のいくつかは現存しており、佐世保鎮守府の当初の設立目的を今に伝える証人となっています。
このようなことから、立神広場は「佐世保鎮守府はじまりの地」といえるのです。この立神広場には現在1棟の建物しか残されていませんが、この西隣には全く同じ規模の建物がもう1棟あり、2棟を合わせて弾薬包庫と呼んでいました。さらにその西側には砲弾を起爆させる信管を保管する「爆発管庫」が建てられていました。この3棟の建物の周囲には高さ3.5mほどの土堤が巡らされ、万が一爆発事故が起こった際に被害局限を図る措置がとられていました。土堤の上には人が歩ける通路が設けられておりそこに歩哨が立つこともあったと考えられます。
市教育委員会では令和3年12月末ごろから令和4年1月にかけて立神広場で歴史公園建設に先立つ発掘調査を行いました。広場内からはこれら2棟の建物跡の他にも複数の建物跡が確認され、何度も建物を建て替えながら拡張が続けられていた様子を確認しました。歴史公園の整備にあたってはこれらの遺構を活かした展示を計画しており、現在残されている煉瓦倉庫を展示、休憩施設として改修し、さらに海側には日本遺産「鎮守府」を紹介するガイダンス施設を新たに建てる計画です。そして広場内の遺構を一巡りする散策路や広場の隅にはかつてあった土堤とほぼ同じ高さの築山を設け、かつての歩哨と同じ視点から広場内や周辺の建物を眺めることができるよう計画しています。ガイダンス施設における展示内容などはまだこれから検討することになりますが、令和7年度にオープンできるように計画を進めています。佐世保鎮守府の発祥と発展を象徴的に示している立神広場に整備する新たな歴史公園が、佐世保鎮守府の歴史を語り継ぐ拠点として親しまれることを期待してやみません。

佐世保市教育委員会 文化財課 川内野 篤

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歴史公園建設予定パース (令和7年度オープン予定)